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2017年11月17日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [3時間~終了]

[古川氏: (*省略)質問がある方は、お願いしたいと思います。]


[質問者: 質問じゃないんですけれども。大変面白かったんですけど、「一尺八寸」が「みおうやま」っていうのビックリしました。確かにあれは石を切る時の大きさ(*不明)が、ただ、杷木の神籠石はですね、やっぱり山国川、花月川を上ってやっぱ海は大変なことです。で、もう一つ、杷木の神籠石の真向かいに「大石堰」ってのがあるのご存知ですか?「大石堰」。江戸時代にですね、5人の庄屋が首をかけて造ったという堰があるんですよ。すぐ見えてます、杷木神籠石の目の前に。]


あれ?それは実際に神籠石のような大きさで造られてます?で、その堰にどれくらいの数、使ってあります?


[質問者: ものすごい量。で、伝承そのものに、近くの石を持ち出して、(*不明)石とか、そういう大石を持ち出して造ったっていう伝承もあります。で、5人の庄屋の首かけてますから、地域のお百姓さんたちが(*不明)筏を組んで(*不明)石を積んで筑後川を運んだという伝承があるので、もしかしたら、杷木の神籠石はこちらに使われた可能性が、目の前ですから。]


目の前だったら、それ使われてますね、明らかに。


[質問者: 使われた可能性はあると思います。]


へぇー、でも朝倉の学芸員さんはそれは言わなかったですね。じゃあ、そこでも使われてるわけですね。それが大体何個ぐらいですかね?千個単位ですか?


[質問者: それはですね、石垣のようには組んでない(*不明)、でも横に(*不明)長い(*不明)50メートルかわかりませんけども、その範囲に石を、だから石を縦に並べたんじゃなくて、横に並べて…]


横に並べて、50メートル…


[質問者: 50メートル以上あります…]


50メートル以上…何段ぐらい?


[古川氏: 高さで2メートルくらい…]


[質問者: で、長さが10メートル以上あると思いますけど]


[古川氏: だから、取水堰なんですよ。]


取水堰、50メートル×10メートル×2メートル…


[古川氏: その殺された庄屋がですね、古賀達也の先祖なんです。]


ああ、それは知らんです。()


[質問者: いやあの、庄屋さんは命は助かったらしい(*不明)、神社が(*不明)]


でもそれじゃあ、やっぱり2000個の数にはちょっと足らないですね。


[質問者: だから、全部そこで使ったかどうかはわかりません。]


はい、わかりました。じゃあ、それも一つ使われてますね。はい、ありがとうございました。


[質問者: 天草のですね、棚底という所がありまして、倉岳っていう地区が。そこでですね、去年発表されているものに、これとは違いますけど、自然石の平石を箱型に組んだ地下の水路が発見されとります。で、まぁそれは江戸時代だろうっていう風に言われてます。で、全延長はですね、やっぱり1㎞ぐらいあります。]


1㎞もありますか、それもすごいですね。


[質問者: ええ。名前がですね、「コグリ」って言います。地元の人たちは「コグリ」って言いますね。]


「こぐる」?


[古川氏: 「こぐる」。「くぐる」「潜る」の…]


ああ、「こぐる(潜る)」ですね、はい。


[質問者: で、その石は切石でないけんですね、地元の開拓で出てきた石を利用しただろうって。で、水が通っとったって言いますけどですね、まぁ水が通るためには下が多分粘土の層まで掘って、その上に組み立てとんだろうっていう風に言われてます。]


じゃあやっぱり、一応密閉したんですね。


[質問者: ええ、そうです。そして、その上に土をまたキャップとしてですね、その上でまた農耕もしとった…]


でもやっぱり、そういう設備はこちらにもあるんですね、面白いですね。


[質問者: ええ、それがですね、天草っていうのはですね、非常に貧しい所ですね。農地が少ないから、その農地の下に造って、また上も農地にしたと言われてます。]


[古川氏: 上島(かみじま)の棚底です。]


じゃあ、そちらも給水設備ですよね?だからやっぱ、古代人はそこまでして排水設備は造らんと思うんですよね。


[質問者: で、まぁ天草っちいうのは水がとても少ないですから…]


やっぱり、給水ですよね。


[質問者: (*不明)水を貯めた所がないと、まぁやっぱ、そらぁ難しいと思いますけどですね。で、この熊本に「トンカラリン」というのがありますけど…]


ああ、あれ、私も二度ほど行きましてね。


[質問者: あれ400メートルくらいっていう風に言うとりますけどですね、それに比べるとはるかにですね、天草のそのコグリ…]


1㎞の方が長いですね。


[質問者: あるんです。そして、そう考えるとですね、「トンカラリン」大したもんだって言って、みんな言っとるけどですね、何のことはないわけでですね。自然の地隙に載せとるだけのもんなんですね。]


ああ、それは大変さは超えられますね。そら、人工のやっぱ1㎞のだったら大変な物でしょう。


[質問者: まぁ、それはあの棚底の、あそこのですね、教育委員会がやってますので、教育委員会が言った結論は、まぁ江戸時代っていうことになっとりますけど…]


それは江戸時代ですね。


[質問者: 江戸時代で出来るんじゃないのかなぁ?とですね。そういう大きな権力なしでも出来るように思います。]


[古川氏: 他に何か?なければ、終わりますがよろしいですか?(*省略)]


[質問者: 少し良いですか?「ヤマト歌」、「倭歌」を「ヤマト歌」って言うわけですよね?もし、倭がこちらであったとしたらですね、こちらの歌が「ヤマト歌」だったことになります…]


そうです。


[質問者: それは向こうに行ったわけですよね?そのまんまヤマト歌、倭歌として大きくした?]


そうです、もちろん。で、「倭の引っ越し」というのがありましてね。で、通説にも「邪馬台国東遷説」ってあるんですけども、持統天皇の後になりますけども、天武天皇・持統天皇の頃からおよそ100年かけて「東の大和」に引越ししたみたいです。で、もう一つの証拠がですね、多分歴史好きのみなさんだったらご存じと思いますけども、筑前・豊前には「廃寺」が多すぎるんです。辞めた寺というのが。で、我が国は奈良時代ですね、7世紀以降仏教は「国の教え」になっていくわけですから、「国の教え」になっていく時代に何で寺壊さないかんのか?というのが今まで誰も説明しよらんかったんですけども、要するに豊前・筑前にあった寺を、木造建築ですから分解して、そして向こうの大和に、引っ越した先に全部持っていって「再建」したみたいです。「移築」したみたいです。いやだから、こっちにはだから、木材が1個も出ないんですね、1本も。で、出るのはだから、礎石と瓦跡だけなんです。それ自体が本当は日本史の最大の「謎」なんですね。仏教は「国教」になったのに、何で筑前・豊前ばっかり「廃寺」があるのか?ということで。それがまだ謎だったんです。


[古川氏: 肥後は浄水寺廃寺とか、もう一つ何かありましたよね。]


ああ、肥後にも廃寺があるんですね。


[質問者: 城南…]


そういうことです。だからやっぱり、こっちのだから、やっぱ大きなお寺さんが全部やっぱりNEWヤマトに持っていかれるらしいんですね。で、私の前にだから、『法隆寺は移築された』っていう本を書いた人もいるんですけども、それは法隆寺だけにとどまらず、だからもうこれで、みなさんの方で肥後もあるわけですから、これでもう肥後・筑後・筑前・豊前・豊後、もうあちこちに廃寺があるわけですよ。じゃあ、何で九州ばかりに廃寺が集中するのか?今まで解き明かした人、誰もいないです。だから、今回みたいにやっぱりOLDヤマトからNEWヤマトへの引っ越しがあったと考えると実にわかりやすいわけです。


[古川氏: 鳥取県もありますけどね。]


だから、あれもだって倭国の一部でしょ?だから、あれが更にまたNEWヤマトでしょ?やっぱり。はい。


[古川氏: 鳥取県も10寺ぐらいあるんですよね。]


ええ、だからもう、吉備の国から東になったらもう廃寺はないですよね?だから、せいぜいあそこまでですよね。


[古川氏: ということで、そしたら再度(*省略)拍手で終わりたいと思います。]

ああ、すいません。どうも、ありがとうございました。


<拍手>


<>




2017年11月15日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間55分~3時間]

香春の土地の物部の媛さん貰って、そしてあの綏靖、神八井耳命と三兄弟を産むわけであります。で、手研耳命、つまりニニギノミコトの直系は暗殺されて、再び天物部氏、つまり倭奴国の血を引く帝さんが立たれて、で、手研耳命さんがやられるから、ここから倭国の乱、「倭国大乱」が起きるわけですよね。で、物部さんが黙っちゃいなかったわけです。オラっちが主流だいっちな感じで。戦争するわけですわ。で、そうしますとね、天皇家の系譜が非常におかしくなりましてね。


これ、私の仮定です。で、この「天忍人命」(あまのおしとのみこと)のところで、神武さんが倭奴国を倒したらしいんですがね。だから、次の4世の名前がヘンテコでしょ?「瀛津世襲命」(おきつよそのみこと)「世襲」って書いてあるんですよ、ここで。ところが、3世までは海部・尾張氏の3世は同じなんですけど、4世がここで変わりますでしょ?海部・尾張氏では4世が「天登目命」(あまのとめのみこと)になりますよね?こっからが全部、ほとんど名前が変わっていっちゃうわけなんですね。


途中でまた7世の「建諸隈命」(たけもろすみのみこと)、それから8世の「日本得魂命/倭得玉彦命」でまた合流するんですがね。これがヘンテコなんですよ。だから、ここでだから、「天忍人命」、このあたりで神武さんによって東征をやって、それで物部の国、要するにニギハヤヒノミコトの国を武力で統一してしまったんではなかろうかと思われるわけですね。


そうすると、実はこの後物部の系譜に入るわけでございますよね。そうした時にですね、これが中々合わんのですよ、年代が。したがって、倭国大乱の間、所謂「欠史八代」綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化、このあたりは実は「縦」の系譜ではなくて、倭国大乱の時に、同時系の時に争った人たちの系譜ではないかと。つまり、これは本来「横」の系譜じゃなかったのかなということが今回やっと見えてきたわけなんですね。


で、その中で『日本書紀』の中に現れないんですが、その崇神にあたるところの次の9世あたり、つまり神武から数えると、神武の時の「天忍人命」から7世のあたりに「弟彦命」(おとひこのみこと)がいて、妹が「日女命」(ひめのみこと)とあるんで、この「日女命」こそが「ヒメコ=卑弥呼」じゃなかろうかって想像したんですね。で、その時『魏志倭人伝』に「男弟」(*訂正済)、男の弟の王がいたって書いてありますでしょ?


ところが、ここでは「お兄さん」の名前が「弟彦命」っち言うんですよ。偶然にしちゃ出来過ぎでしょ?偶然にしちゃ出来過ぎでしょ?そして、みなさんもっと驚くと思いますよ。11世、何て読むんですか?これ。「乎止與命/小登与命」(おどよのみこと)です。「おとよのみこと」です。これが下手したら、卑弥呼の宋女「臺與」(とよ)でしょ?。だから、あれもだから「壹與」(いちよ)じゃなかったんです。「臺與」と書いて、またこの読みです。「台与」です。「トヨ」です。


で、「トヨ」って言ったらもう一番最初に紹介した「豊国」の「トヨ」です。だから、「美称」で済ませたら絶対ダメなんです。全部、「豊国」指していた。で、「トヨ姫」伝承は豊前の国に豊富にあります。豊後にかけて。(*省略)ということで、神武天皇の本当の復元をやっていくとですね、これだけ中国正史と現地伝承と『日本書紀』とを横断しましてですね、多分みなさん俄かには信じがたいと思いますが、これだけの歴史事実が浮かび上がるわけですね。ということで、「神武は筑豊に東征した」、『日本書紀』の神武天皇紀の復元の一考察というトンデモナイお話しを終わります、はい。


<拍手>

2017年11月14日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間50分~2時間55分]

さぁ、その上見てください。で、今でこそ『旧事本紀』という書物はですね、明治以来の歴史学によって貶められてしまったんですが、江戸時代までは国学をやっていた本居宣長先生の頃までは『古事記』『日本書紀』『旧事本紀』というのは非常に大切な歴史書でありましてね。で、中でも『旧事本紀』が実は最も大事な書物だったんですよ。これがどういうわけか明治時代になって、評価が貶められたんです。で、『日本書紀』が正統とされちゃったんですよ。


だから、わずか百数十年の歴史なんです、『日本書紀』が重要になったのは。で、その『日本書紀』が当てにならんって言って、『古事記』だけが本物を書いたって言ったのが古田のおじさんなんですけどね、これもまたペケだったんです。実はこの三つが最も大事なんです。中でも『旧事本紀』が一番大切だったんです。なぜかと言ったら、あのところにはですね、「天神本紀」「天孫本紀」「天皇本紀」「皇孫本紀」って、わけのわからない本紀が並ぶんですよ。


で、「本紀」というのはみなさん司馬遷の『史記』という書物をご存知でしょうけど、あれは中華帝国の中心にいた人物の記録を「本紀」っち言うんです。じゃあ、天神が本紀で、天孫が本紀で、皇孫が本紀で、尚且つ天皇が本紀であったら、一体誰が倭国の中心です?中心が「四家」もあるんですよ、あの本では。だから、これは明治以後の天皇家にはそぐわない書物だったんです。だって、「天皇家」以外に「本紀」があるんでしょ?だから、貶められたんです。


『日本書紀』こそが、天皇だけを書いてあるから、これが一番正しい歴史書、それがみなさんの頭に刷り込まれた、みなさんが多分おじいちゃん、おばあちゃんまでが刷り込まれた、この明治以来の日本史の歴史だったんです。百数十年の「誤解」ですよ。『旧事本紀』が一番重要だったんですよ、江戸の終わりまでは。その『旧事本紀』の中にですね、こんな系譜が書いてあるんですよ。はい、物部氏。これが大事な「天孫本紀」です。さっきお知らせした「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですね。


こっから始まりましてね、すぐ分かれるんですよ。一つは「天香語山命」の系統、「天香語山」ってのはもちろん「天香山」指します。だから、これが多分香春に残った神様です。この系譜はずっと「倭奴国」の系譜ですね。それからもう一人の「宇摩志麻治命」。これがですね、この人物こそが瀬戸内海を渡って大阪方面、今の近畿方面に進出した物部です。だから、その隣に書いてある「河内物部」は当然「宇麻志麻治命」から始まるわけですよ。これは大阪の河内のことです。


これで一致しましたでしょ?現地倭に残ったのは「天香語山命」です。天香山、あの山ですから。それに対しまして、大阪方面に進出していったのが、東遷していったのが、だから「東征」、ここでだからもう一つの東征があるんです。「物部氏の東征」があるんです。これは神武の東征の「前」です、だから。これこそが、向こうの「宇麻志麻治命」の系譜です。だから、向こうにニギハヤヒの伝承があるんです。哮峰(たけるがみね)に降臨するんです。


だから、当然ニギハヤヒの伝承持っていきますよね?息子さんですから。で、その河内物部氏の系譜があります。それから、亦名が「天火明命」である時に、どういうわけか「海部(あまべ)氏」、これは丹後の方ですかね、籠宮(このみや)。それから「尾張氏」の先祖も実は「天火明命」で、その祖が実は「天香語山命」から始まるというように、この物部氏には、だから系譜がいくつも分かれていくんですね。


そうして、一番天孫本紀に書いてある系譜でいくと、一世・天香語山から始まって、「天村雲命」、歴史に詳しい方、ここでビックリするでしょう?「あまのむらくも」ちゃ、何ですか?ほら、「剣」。この人が持ってた剣でしょ?「天叢雲剣」。こんな神様いたんですよ、ご先祖が。それから「天忍人命」、それから次が「瀛津世襲命」(おきつよそのみこと)ですね。


それから「建箇草命」。「建田背命」。それから「建諸隅命」。「倭得玉彦命」。そして、9世見てください。「弟彦命」で、ここだけ特別に妹は「日女命」(ひめのみこと)って書いてある。で、さっき言いましたように実は神武は香春の土地に宮を建てて、そこで即位しますね。


2017年11月13日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間45分~2時間50分]

で、この後はさっぱりわからんのですがね。「恵蘇八幡宮」かどうかわかりませんけど。ほら、また見事に歴史つながるでしょ?簡単に私の妄想で片付けられないでしょ?「朝倉」の土地に「杷木神籠石」あるんでしょ?じゃあ、みんな斉明さん関係しとるやないですか?それでさっきの禰軍さんの墓誌銘からいって、禰軍さんがやってきたのが「菟道宮」、あれが香春。で、香春の所に斉明さんが「狂心の渠」を造ってたらしい、遺物が未だにある。


で、そのまた東の大坂山の所にその「呉中平雪穴」という大きな遺跡が残っとる。これらの証拠が全部つながったら、やっぱり杷木神籠石、「あ、これ良い材料ね」って言って、持っていっちゃったという、とんでもない推理ができてきた。で、ここにまた「菊池」が関わってきた。これが「狗奴国」。もう私もやっと狗奴国見えてきましたよ。はぁ、やっぱりここやと。この穀倉地帯をバックにして戦えば、滅多なことじゃ負けないですよね。


で、この菊池氏っていうのはすごい勢力でね。豊臣秀吉だって、古川さんから聞きましたけど、とりあえずここの地は菊池氏(*不明)として、それで南の島津攻めにいったんでしょ?すごい力ですよ。こらぁ、だから「邪馬台国」(やまたいこく/やまとこく)の時代からものすごい一族、しかも今日みなさんにお話しした、あの「倭奴国」ニギハヤヒの国、あの天狗さん、カラス天狗たち、あの人たちとやっぱ同じ一族だった可能性がある。弥生時代からのやっぱ古くからの由緒ある土地なんです、「菊池」は。


大変な土地なんですよ。あれはもう明らかに中国の正史『魏志倭人伝』、あるいは謝承の『後漢書』、あれにみんな記された国だったんですよ。だから、逆に言えば中国正史に載っかっとるんでしょ?菊池は。キクチヒコ(狗古智卑狗)さんである限りは。「狗奴国」で載っかっとるわけですよ。それでみなさんたち、今まで天狗のこと考えたことなかったでしょ?で、「倭奴国」という国があったんです、あの「漢委奴国」。


で、それを神武さんやっつけて、それで北九州、この菊池まで含んで、で、最初は統一した。いよいよ「倭(邪馬台)の国」が出来上がるわけですよ。さっきのあの石斧の図のようにね。で、それが「倭国大乱」が起きて、つまり要するに、何で大乱が起きたか?というのも私が今回解き明かしたように、「手研耳命」を綏靖が「暗殺」するわけでしょ?暗殺するわけでしょ?本来、手研耳命さんがニニギノミコトの直系の子孫でしょ?


で、綏靖さんとか神八井耳命さんというのは、あれは神武さんが香春の土地、旧・倭の地に入って、あそこで貰った「物部」の媛さんでしょ?物部の媛さんとの間に生まれたのが実は綏靖、神八井耳命なんですよ。だから、あれは倒した、実は倭奴国の、委奴国の「物部」の一族の系譜なんですよ。あの人たちは。でも、「手研耳命」っていうのは明らかに「筑紫」の側で生まれてるわけでしょ?


ニニギノミコトの、まぁ本来「分家」だったはずなんだけど、もうこれで戦争で勝ったんですから、侵略で勝ったんですから、今度はこっちが「正統」でしょ?だから、本来「手研耳命」さんが「正統」のはずなんですよ。それをまた地元の物部の媛君を母に持つ綏靖たちが、これは手研耳に対する今度は「反逆」でしょ?だから、この「反逆」を良しとしなかった人たちが、互いに対立して、「いや、俺たち物部が本来は物部の本流じゃ」って争いしたのが、これが「倭国大乱」じゃなかったかなと。


そうするとやっぱ崇神さんが、崇神さんが再び「ミマキイリビコ」って言いましてね。これは任那の方から、また韓半島からやって来るんですよ。それで、ゴチャゴチャゴチャゴチャしてる倭の国に入り込んで、それで彼が一体何をやったかというと、「崇神」の称号にあるように、「神を祀った」んですよ。で、何を祀ったかと言ったら、この倭奴国の元々の神様「ニギハヤヒ=天照」を祀るんですよ。それから、香春におった「大物主神」を祀るんですよ。


この神を祀ることによって、物部一族はようやく納得したわけでしょ?それでその「大物主神」に仕える、その多分、巫女さんであったと思われる「卑弥呼」さんを立てることによって、やっと国が安定して女王が共立されるわけでしょ?成り立つわけですよね。で、その時に私が神武東征で分析した、その卑弥呼さんというのがどっかにおらんかな?『日本書紀』以外におらんかな?って探したら、『旧事本紀』の中におったんですよ、この表。


で、そこに「鶴岡八幡宮」、これがひょっとして「橿原宮」跡ですね。これもだから、「山」になってますから、原文はひょっとして「橿山宮」だったかも知れないですね。「原っぱ」じゃないんです、このお宮さん。山の上です、やっぱり。で、隣が「おほきんさん」の墓ですね、「神武陵」ね、はい。


2017年11月10日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間40分~2時間45分]

「そんな馬鹿な。あんまりにも遠すぎるやろうが」っち。誰も信用してくれないです。ひとり悶々と悩んでます。しかし、それ以外に考えようがない。で、それでですね、もう一つやった時にですね、その「大石峠」という峠の近くに「一尺八寸」って書いた山があるんです。「一尺八寸山」っちいうのが。で、これがですね、中津市にある所のね、ギリギリ山なんですけど。「みおうやま」って読むんですよ。「みおうやま」。日本一難読の地名なんです。「一尺八寸」と書いて、「みおうやま」。


で、私がまたよからぬ妄想をやってしまったわけです。だから、この「大石峠」まで、「杷木神籠石」を運んできて、これ一立方メートルの大きさですけどね。で、これをその香春の地下水路に使ったわけですから、ここでひょっとして「18寸」に加工したんじゃないかいな?と。で、少し加工した物を今度はまた舟に積みなおして、山国川を下っていったんじゃなかろうか?と。で、これを言い始めたらまた古川さんたち一行、みんな「ウン?そら、いくら何でもありえんやろ?」っつうな感じ。


未だに誰からも信用してもらえません。偶然ちゃ恐ろしいもんでしてね、去年の9月の連休に本当に杷木神籠石の石を使ったんかいな?と思って、杷木神籠石を確かめて、で、朝倉の学芸員さんに訪ねて、「あそこ本当に石が出ないですよね」って、これだけは納得してもらった。「ああ、間違いなくあそこ出ないです。本当に情けないくらい石がないです」と。もうこれは確認したんです。で、それでその前に発見しとった「吉野宮」にもう急いで入って、で、また直方に入るわけですけどね。


で、その時に通ったのがずーっとそれが横が「川」が流れとったなぁと。で、それで「大石峠」越えて、その下の国道通るんですけどね、トンネルを。それを越えたら、またも「川」が続いとったと。あれ思い出した瞬間に「ああ、そういえばあれ、ずーっと水系続いとるなぁ」と。まぁ、ここまで妄想しちゃったんですけどね。で、大事なことは、もうここで言った、その杷木神籠石の石を使ったかどうかというのは置いときましょう。


これでもう、とにかく「石組みの地下水路」が出てきて、まぁその石の一部なんかね、借りて、採ることができて、そしてまぁ、杷木神籠石の許可が出るかどうか、わかんないですがね。あれもちょっと削って、それで石の成分を調べて同じものだったら、私の仮説大当たり。また歴史が大きくひっくり返るわけです。斉明さん、そういう大土木工事やったわけです。


で、もう一つわかんなかったのが、何で近くに「鹿毛馬神籠石」があんのに、あれ使えば距離も近いし、簡単なのに、何でわざわざ杷木神籠石の持ってくるんかいな?と。これ、しばらく考えよったんですよ。そしたらですね、またこれさっきの「倭奴国」の話、『魏志倭人伝』の話、それから「邪馬台国」「倭国」の話、そして『魏志倭人伝』で、女王国と戦争しよったのどこですか?「狗奴国」でしょ?狗奴国の王様、何て名前ですか?「キクチヒコ(狗古智卑狗)」。ほら、この「菊池」ですよ。


ここが「狗奴国」ですよ。ここが女王国と戦いよったんでしょ?ほんでもう、古川さんに今日ずーっと午前中ここずーっとね、見せてもらいましたけど、すごい「穀倉地帯」ですよね。女王国と十分に戦えた所ですよね、うん。で、この「狗奴国」の「狗」というのもさっきの「天狗」さんの「狗」でしょ?だから、ニギハヤヒの倭奴国のやっぱり一部正統の跡継ぎなんでしょ?こっちが。こっちが正統なんでしょ?だから神武さん、倭奴国を倒した神武さんの王朝には加勢せんよと。


それで卑弥呼さんが立った時には「倭国大乱」だったわけでしょ?で、例えば狗奴国のキクチヒコさんなんかが、「俺たちの方が、実は倭奴国の正統や」って言ったら、女王国にはやっぱ従えんでしょ。戦争するわけですよ、やっぱり。その地理的な環境も整ってきたわけです、また。で、先程の話に戻ります。何で斉明さん、わざわざあんな遠い杷木神籠石の石使うんや?と。もう、出てくる答え一つ。あれは「狗奴国の王が建てた神籠石」なんでしょ?


「鹿毛馬」は下手をすると斉明さんの先祖が建てた物かもしれん。だから、何か知らんけど先祖にゆかりがある土地かもしれん。だから、その自分の国にある神籠石は流石に手付けなかった。だけど、それはかつての女王国と戦争した「狗奴国」の遺跡だったら、こらぁ憚ることないでしょ。壊したかて罰は当たらんと。だから、もう一つの証拠は杷木神籠石に「朝倉」近いでしょ?もう今、朝倉市です。したら、斉明さんどこに来たですね?「朝倉橘広庭宮」に来たんでしょ?