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2017年9月21日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [35分~40分]

その中州国目がけて侵攻するわけです。これが「第一次東征」です。で、みなさんご存知の通り、この時には敗れます。負けます。大敗戦です。で、兄の五瀬命が敵の矢に当たって結局病死してしまいます。ご存知ですね?で、通説ではですね、『古事記』に書いてありますように向こうの方ですから和歌山県の竈山ですか、あそこに五瀬命を葬ったという風に書いてあります。


ところがですね、この『日本書紀』よーく読んでみますと、あるいは後で出てきますけども実は『鞍手郡誌』、福岡県にある鞍手郡という所があるんですがね。そこの『鞍手郡誌』に、「射手引神社社伝」というのが採られておりまして。で、その中には明らかに神武さんはこの第一次東征に敗れた後に、「筑紫に戻ってきた」って書いてある。みなさんが知ってるように、近畿の大和に行ったきりじゃないんです。遠賀湾から戻ってくるんです。それで、お兄さんをやっぱり「竈山」に葬るんですよ。


で、この「竈山」というのは福岡県には一番有名な場所にあるんです。太宰府の「宝満山」です。あそこに「竈門神社」がある。あれ、だから昔の「竈山」です。だから、運が良ければあの「竈門山」のどっかに実は五瀬命を葬った場所があるはずなんです。で、その宝満山を中心にして今度はそこで再び軍隊を編成しなおすんですよ。それが福岡県の射手引神社、山田市にありますけどもね、今は嘉麻市ですか。あの神社さんの伝承の中にちゃんと残ってるんですね。


そこで軍隊をもう一回編成しなおすんです。で、その時にみなさんがご存知の有名な話がありますね。要するに我々は「日神」の、「アマテラス」でしょ?日神の子孫であるのに、「日に向かって」戦ったから負けたんだと。だから今度は「神策」、神の策と言って、「日を背」にして、だから相手を「西」に置いて戦おうと。そういう策を考えるわけです、神武さんは。神日本磐余彦。


それで軍隊を編成しなおして、それで何をやらかすかというと、みなさんがよくご存じの、関門海峡を抜けて、そして宇佐へ行くんです。これはご存知でしょう?宇佐へ回るんですよ。これで初めてわかるでしょ?何で宇佐が出てくるのかって。宇佐へ回るんですよ。もう一回行きますよ。最終的なそのニギハヤヒの都というか、末裔の都というのは「古遠賀湾」、今の直方市、あるいは私の生まれた宮田町辺りにあるんです。そこを攻め落とすんです。最初はそこに真っすぐ向かっていった。


つまり、太陽に向かっていった。東に向かっていった。だから、敗れたんだと。じゃあ、今度はお日様を背にして戦おうということで、大迂回するんですね。「第二次東征」は。宇佐へ迂回するんです。まぁ、そういったことがようやく見えてきたわけなんでございますよね、はい。で、それで宇佐の方へ回っていくんですがね。その前にですね、神武紀の中には、これは私がやっておりますように「倭歌」、特に「記紀歌謡」大事なんですがね。


で、この神武紀の中にですね、<お佐嘉(さか)の大室屋に人多に入り居りとも人多に来入り居りともみつみつし来目の子らが頭椎(くぶつつ)い石椎いもち撃ちてし止まむ>なんて歌が出てくるんですね。(*省略)「お佐嘉の大室屋」。(*省略)


この歌ですね、<お佐嘉の大室屋に~>今までは「忍坂」という字を当てておりましたけども、私が実はこの歌は神武のお父さんがですね、お父さんが今の「吉野ヶ里遺跡」、あそこを攻めた時の歌だっていうことに初めて気が付いて、『九州王朝の論理』というところで、お佐嘉なる蝦夷という論文で書いたんですがね。だからここに、「佐箇(原文表記)」に、「佐嘉神社」の「佐嘉」という字を当ててあります。これは「吉野ヶ里遺跡」のことだったんです。