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2017年9月22日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [40分~45分]

で、ここにだから、この天神降臨や天孫降臨で降ってきた「天孫族」が「荒神族」、荒神族をやっつけた時の歌が実はこれだということに気が付いたんです。これで筑紫の側に降りてきたニニギノミコトの子孫たちがですね、今の佐賀県を全部手に入れてしまうわけでありますね。こうしてかなりの勢力をもって、力を蓄えて、それでニギハヤヒ本家の国を乗っ取りに行くわけですよね。だから、この歌がそういった意味の背景であるということに、これもつい数年前に気付いたんですよ。


これは、「お佐嘉の大室屋」。これも非常に詳しい論証やってありますが、そこにやっと気付くわけなんでありますがね。これがやっぱり神武の側の、神武のお父さんの業績だったらしいですね。この時神武はまだ、せいぜい145歳の頃の事件になるようです。で、これがわかりましてね、その後にだから、今度は東征が始まりますが、東征の頃には既に神武はもう456ですね。一応計算しました。はい、そういったこともわかってまいりました。


で、こうやって彼はとにかく太宰府の辺り、宝満山の辺りで、とにかく「第二次東征」を企てます。そして、宇佐の方へ回りますね。宇佐の方に回ります。で、宇佐の方に回って、それから先、何をしたのか?ということが実は今までさっぱりわかんなかったんですよ。それで「第一次東征」に失敗して、彼は「筑紫」の方に戻ってきますね。で、さっき竈山に兄を葬ったってありましたが、その前に「草香津」(*訂正済)、「草香」に戻ってくるんですよ。『日本書紀』はっきり書いてあります。


「草香」に戻ってきたと。で、そこでみなさんに与えてある地図がありますね。これは実は鎌倉時代まで今の福岡市、住吉神社さん、大社さんがある所ですが、そこに「草香江」ってありますでしょ?4ページの地図ですね。だから、神武さんやっぱり再び、西の偏、筑紫に戻ってくるんです。この「草香江」に戻ってきて、雄誥(おたけび)を上げたって言うんです。あぁ、こんなん負けてしもうたっちな感じで。残念無念と声上げたらしいですね。


その「草香江」というのが、これが123世紀まであの博多の地にあったらしいです。だから、この「草香」なんです。大阪の「孔舎衙」じゃないんですよ。もう、これもだから証明が出来たわけなんですね。で、ここからだから、太宰府まで行けるでしょ?「御笠川」上って。それで竈門山・宝満山に、御笠山(*共に宝満山の別名)に、あるいはとにかく竈山に兄さんを葬って、ここで軍隊立て直して、いよいよ「第二次東征」。


で、今度は「日」を、それから「背」にして戦うということで宇佐へ大迂回をするわけです。で、その時に、関門海峡通る時に、あそこは非常に波の流れの早い所で難所ですね。で、神武さんはこの時、西の偏の人ですから、関門海峡の潮の満ち引きを知らないんですよね。この時に、きっとみなさんがご存じのあの例の「槁根津彦」(さおねつひこ)。槁根津彦。あの神に出会って、「アンタは私を先導してくれないか?」と言うて、彼が「ウン」て許諾して、彼を船に上げて、水先案内人頼むわけですよね。


これが「椎根津彦」です。そうしますと、福岡県の東の方に「椎田」なんて地名がありますでしょ?多分、あの辺りの長官と言いますか、あの辺りのね、領主だったという可能性があるんですね。まぁ、それで関門海峡無事通過させます。潮の流れ知ってますから。これは後の「倭国造」(*訂正済)か何かですよね?(*省略)まぁ、そういう人物なんですが、とにかく神武に味方した、つまり本来ならば「ニギハヤヒ」の国の一戸の領主なんですがね。


この領主がとにかく神武に、だから味方したわけなんですよ。もう早くも「倭奴国」の裏切り者、神武の味方がもう既に関門海峡に現れるわけですよね。これで関門海峡を越えて、無事越えて、それで今の簑島なんかを通過しながら、宇佐に入るわけなんです。で、これで宇佐の所で「菟狭津彦・菟狭津媛」に迎えられて、それでそこから先、神武さんがどうしたか?と言うことが実は『日本書紀』には全然書いてなかったんですよ。たった一行しか書いてなかったんです。


<狭野を越えて~>という一文なんですよ。<狭野を越えて~>という一文。で、その<狭野を越えて~>という所が一文あって、それで神武さんの若い時の名前が「狭野尊」っち言うんですよ。それは一体何を意味するのか?ってわかんなかったんですね、長い間。それで宇佐を回っていって、それで先程言いましたように山田市に、今の嘉麻市に残っております「射手引神社社伝」、それが『鞍手郡誌』に残っていたんですが、その中で彼は「烏天狗」、「八咫烏」、八咫烏の一族とどうやら同盟を結ぶらしいんですね。